愛の正体、愛されることが最上の幸せか
愛、というものを幸せの頂点だと、なんとなくぼんやり思っている人は多いと思う。
だけど愛とはいったい何なのか、飲んでる同僚達と議論になったら、居酒屋の中では収集がつかないくらい、解釈が多様で、ひどく曖昧なものだ。
愛し合って幸せな夫婦もいれば、
愛が行き違って、あるいは無くなったと思って、破滅するカップルもいる。
愛は人を惹きつけ、幸せをもたらすこともあるが、
時に、その解釈の違いが故に、人を不幸にもする。
だから昔から色んな偉い人が、愛は何なのか考えて定義しようとしてきたし、
皆が人生の中で、大事なこととしてどうにか捉えようと必死になっている。
僕も例にもれず、愛は何か気になって仕方がなかった時期があったが、
いまは、自分が納得するだけの一応の答えを得た気でいる。
きっかけは、昔プラトンか何かの、古代ギリシアの哲学エピソードを読んだ時だった。
内容はごめんなさい、細かいことは忘れてしまいましたが、
主人公ソクラテスと恋人関係?にある美少年の話があって(当時、成人男性による少年愛は一般的だった)
ソクラテスを「愛する者」、美少年を「愛される者」みたいな感じで訳されていて、
現代のニュアンスとの微妙なズレを感じた。
幸い丁寧な入門向けの訳本だったので、注釈で解説されていて、
古代ギリシアの当時は、「愛」とは能動的なものと受動的なもので区別されていた、みたいな感じのことが書いてあった(かなり昔の記憶なので曖昧です。すみません。)
ほほう、なるほど、現代ではおおむね「愛」は、「愛し合うものたち」というペアで相互のものととして語られる文脈がほとんどだから、違和感があったんだ、
とその時はそうとだけ思っていた。
それから年月がたって、妻をもち、息子が生まれて2年ちょっと、古代ギリシアの愛のことを思い出した。
何一つ自分ではできない赤ちゃんを、一生懸命世話して、ご飯を口にはこび、おむつを替え、身体を洗い、ただただ与え続ける毎日。
ただ与え続けている日々がとてつもなく幸せだった。
もちろん彼の機嫌がよければ、最高の笑顔が返ってくるので、それが嬉しいのだけど、それが必ずしも毎回なくたって、きっと僕は息子を愛するだけで幸せだと思う。
自分が子供の頃は、同じように親から何もかも与えられてきて、それはそれでとても幸せだった記憶があるのだけど、与え続けているだけの今の幸せは、また違った、より幸福感が強いものに感じられた。
その時、例の「愛する者」、「愛される者」という区別を思い出して、
ああ、能動的な愛と、受動的な愛の違いはこういうことか、と思った。
愛は、育むもの、だと思う。
与えることで、自分の中での愛情が育つ。愛情が育つと、より強く愛することができる。
この、強く愛することができている状態、というのが、僕の人生史上では最高に幸せな状態に思えた。
多くの人は、愛されたい、と考える。幸せになりたいから、そのために愛されたいと願う。
だけど、それだと愛してくれる誰かを待つしかない。幸せを自分で掴みに行けない、受動的なものになってしまう。
それなら、愛してみるのはどうだろうか、自分から与えてみるのはどうだろうか。
愛されるのを待つよりも、愛するほうが確実じゃないか。